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《いとう とおる》
1969年広島県生まれ。中央大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程後期単位取得退学、博士。在インド日本国大使館専門調査員、島根大学法文学部准教授等を経て2009年より防衛大学校。2021年4月より現職。『新興大国インドの行動原理―独自リアリズム外交のゆくえ』、『インドの正体―「未来の大国」の虚と実』など著作多数。

 世界が戦々恐々とするなか、インドはトランプ2.0の発足に冷静だった。いや、モディ政権に関して言えば、むしろ心から歓迎したというのが本音だろう。
 というのも、バイデン民主党政権との間では、半導体や戦闘機エンジンなど機微な分野も含めた協力関係が進んだのは確かだが、ロシア非難や制裁に同調せず、ロシア産の原油や肥料を買い増しするインドの姿勢や、インド国内で進む民主主義や人権、宗教の自由の後退、さらにはカナダや米国でのインド諜報機関による標的殺害計画疑惑などを巡って溝も広がっていたからである。その点、トランプ氏は第一期政権期にモディ首相と極めて相性が良かっただけでなく、こうした価値観を巡る問題に頓着しないとみなされていた。また、ウクライナ支援に消極的で戦争終結を求めるトランプ氏の立場は、ロシアとの戦略的関係を維持したいインドの方針と合致するはずだと考えられた。
 もちろん、「アメリカ・ファースト」、「アメリカを再び偉大に(MAGA)」を掲げるトランプ氏に何の懸念も抱かなかったというわけではない。トランプ氏は選挙戦中から、「関税王」とか「関税乱用国」などと、インドへの名指し非難を繰り返し、貿易を巡ってインドに注文を突き付けてくることは予想されていた。そもそもトランプ1.0の2019年、米国は一般特恵関税制度(GSP)の対象からインドを除外して途上国としての優遇措置を剥奪し、反発するインド側は米国からの輸入品の関税引き上げで報復したという経緯がある。その意味では、「貿易戦争」を仕掛けてくることは織り込み済みだった。

 モディ首相は今年2月、石破茂首相らに続き、いち早くホワイトハウスに招かれた。それはトランプ2.0がインドを重視していることの証左であった。貿易問題が議題に上ることを念頭に、モディ訪米前にインドはハーレーダビッドソンや自動車、スマートフォン部品の関税引き下げを発表して先手を打った。それでも、トランプ大統領はモディ首相の面前で、インドの高関税を「大きな問題だ」と露骨に不満を示した。これに対し、インド側は今秋までに懸念事項に対処する二国間貿易協定をまとめることに合意した。
 この首脳合意に基づき、二国間交渉が進むなか、4月2日にトランプ大統領は世界各国への「相互関税」リストを発表した。インドへの関税は日本を上回る26%とされたが、日本や欧州で驚愕の声が上がったのとは対照的に、インドはここでも泰然自若としていた。
 インドの落ち着きぶりにはいくつかの要因がある。まずインド経済はそもそも内需依存型で、関税引き上げが産業界に及ぼすマイナスの影響は、日本のような国と比べると限定的である。そもそもトランプ大統領が問題視しているのは、インドの輸入関税そのものというよりも、米国が抱える二国間の貿易赤字であると思われるが、これについては、たとえば石油やガスの購入を増やすことでほぼ解消できると思われている。
 最も重要なのは、トランプ大統領にとっては、一時は145%もの関税を課すと発表した中国こそが本丸の標的であることには変わりはないという点である。だとすれば、トランプ関税は中国との競争においてインドに有利に作用する。そのうえ、ASEAN諸国やバングラデシュ、スリランカなど他の輸出競合相手は、インドよりも高い税率を設定されていることを考えれば、世界の企業はインドを脱中国の生産拠点としてみなすだろうとの自信である。
 実際、アップル社は米国向けiPhoneの大半をインドで製造する計画を発表した。これに対し、トランプ大統領はその場合には25%の関税を別途支払うことになるなどと牽制したものの、米国内で製造を完結するというのは非現実的なのは火を見るより明らかである。インドへの投資が進むはずだ。そんな楽観論が広がっている。

 他国に先駆けて進んでいる二国間交渉では、インド側は一定量までの自動車部品や鉄鋼の関税ゼロを提案しているなどとされる。第一次産業が依然として就業人口の半数近くを占めるインドの現状を踏まえると、主要農産物の自由化を受け入れることはないであろうが、それ以外の分野では譲歩の余地がある。トランプ関税という外圧が、むしろインドの保護主義的な政策を転換し、競争力を高める改革のきっかけになると期待する向きもある。
 実際、トランプ関税を意識した2025年度予算では、EV用バッテリー製造の資本財、銅、コバルト粉、リチウムイオン電池を含む12の重要鉱物のスクラップに対する関税免除が発表され、自動車業界はインドでの製造を後押しするものとしてこれを歓迎した。

 他方で、モディ政権は「トランプペース」での交渉を避ける対抗策も打ち出している。5月に入り、インドは米国が3月に発動した25%の鉄鋼・アルミニウム関税に対し、報復措置を取る意思を世界貿易機関(WTO)に通知した。また、トランプ関税を牽制するかのように、一時は暗礁に乗り上げていた英国との交渉を一気にまとめ上げ、5月、印英自由貿易協定(FTA)合意を発表した。例えばインド産のエビが最大の消費国である米国から締め出された場合には、英国という新たな市場で売ることが可能になると期待されている。英国のみならず、欧州連合(EU)やニュージーランドなどともFTA交渉を加速させ、トランプ関税への対応を急いでいる。
 トランプ関税と今後ありうる米中貿易戦争を巡ってインドが恐れているのは、世界経済自体が停滞し、そのことがインド経済の成長の妨げになるという点だが、これは自国ではどうにもならない。もう一つの懸念は、米市場から締め出された中国や他の国々の輸出品が、ダンピングされて大量に流入するというシナリオである。
 14億の成長市場を世界が見逃すはずはないからである。すでにその兆候は見え始めているが、これに対しては、その都度、反ダンピング関税を発動するという対処療法を採用していくものと思われる。懸念はあるが、インドでは、トランプ関税は総じて自らの成長と改革の機会になるとのポジティヴな受け止め方が支配的である。

【速報版】 令和7年6月2・16日 週刊「世界と日本」NO.2294・2295号より