今年一月、米国の調査会社ユーラシア・グループが、「世界の一〇大リスク」を発表し、日本でも話題になった。一位が「深まるGゼロ世界の混迷」であり、第二位第三位がそれぞれトランプの支配と米中決裂だった。とりわけ興味深いのが、Gゼロ世界の混迷を、一九三〇年代と冷戦初期に匹敵する危険な時代だと定義したことである。 筆者は偶然、一冊の本を脱稿した。一〇月に新潮新書として刊行予定のこの本で、「現代社会は、戦間期、すなわち第一次大戦と第二次大戦のあいだである。つまり、一九二〇年-三〇年代に注目すべきである」と書いていたのである。この問題意識を手掛かりに、わたしたちの現在地をさぐり、もって日本人が今度、どう生きるべきかを考えてみたい。 戦後八〇年の節目ということもあって、私たちは太平洋戦争に関心が向きがちである。しかし今年が昭和百年にあたり、昭和元年が一九二五年であることにも、もう少し注目したほうがよい。一九二五年前後の国内外の情勢を列挙すると、次のようなことが起きていた。
一九一七年、第一次大戦終結。ロシア革命でソ連の成立。翌一八年、スペイン風邪の大流行がはじまる。二〇年、パリ講和会議をへて国際連盟設立。二三年は国内では関東大震災が、外交では四カ国条約が締結され、日英同盟が事実上、破棄されたのである。翌年、アメリカで排日移民法の成立。この時期から、日米未来戦記が流行する。一九三〇年、ロンドン海軍軍縮条約が締結、統帥権干犯問題で浜口雄幸が暗殺される。もちろん前年、世界大恐慌に世界は呑み込まれている。三一年、満州事変勃発。日本の孤立は深まり、三三年、日本が国連脱退をした同年、ドイツではワイマール体制が崩壊し、ヒトラーが登場する―。 以後、一九四一年の日米開戦まで、わが国は日中戦争の泥沼にはまり込むわけだが、私はここで戦前日本の戦争責任を云々したいわけではもちろんない。問題は、第一次大戦が、「総力戦」と呼ばれる、未曽有の犠牲者をだした戦争だったという点であり、その結果、ヨーロッパのなかから、ヨーロッパ自身の文明観や価値観への懐疑が生まれたことにある。
例えば、国際連盟の設立は、しばしば提案国であるアメリカが参加しなかった結果、失敗したと言われる。教科書的なこの説明は、事実をうまく説明していない。当時、実際におきていた事態はもう少し深刻であった。その格好の事例を、外交官であり学者でもあった、E・H・カーの著作『危機の二十年』と『平和の条件』に見て取ることができる。 今日でも岩波文庫で手軽に読むことができる二冊によれば、カーは、第一次大戦がもつ意味を、十九世紀近代システムの終焉と位置づけている。十九世紀近代システムとは、一八〇〇年代に主に西ヨーロッパで通用した価値観のことで、政治思想では自由民主主義、経済体制では自由放任主義、国際秩序では民族自決主義、そして人間の生き方としては個人主義のことである。現在でもおなじみのこの価値観は、日本ではペリー来航時に文明開化として導入されたものであった。カーが主張したのは、こうした近代システムは、決して普遍的価値観でも人類すべてが受容できる世界観でもなく、単に一八〇〇年代の西ヨーロッパの安定に資するシステムにしか、すぎないというものだった。
例えば、自由放任主義は、今日風にいえば、グローバル経済のことであり、新自由主義経済によって、規制緩和と市場競争を推し進める立場のことである。また、民族自決とは、一民族一国家のことであり、小国であっても主権を認められるという考え方のことである。しかしこれを一九二〇年代の東ヨーロッパに適用してみよう。すると、第一次大戦中の総力戦体制とソ連の国家総動員体制を前にして、国家統制不在の経済が、いかに脆弱であり、貧富の格差を生みだすかが、あからさまになった。また東ヨーロッパに民族自決を適用すると、多民族が混在する地域性のため、混乱が混乱を生んで、平和も秩序も生まれない。結果的に、大国Aの侵略を防ぐためには、大国Bの支配下に入るしか小国に選択肢はなく、事実上、主権など認められない状態に陥るのである。 こうした考察を一歩一歩進めながら、カーは、次のように言うのだった。戦間期とは、従来、普遍的価値だと思われた近代システムが終焉し、「新秩序」が求められている時代なのだ、と。要するに、西洋は没落し、それに代わり、今や新しい世界観、国際秩序観をかかげて、ドイツとソ連が台頭してきている。その魅力に注目せよと言っていたのである。
さて、二〇二五年を生きるわれわれは、その結果を知っている。結果は、カーの予想通りにはならなかった。第二次大戦で、ファシズムの世界観を破った自由民主主義陣営は生き残り、一九九〇年代には共産主義にも勝利し、十九世紀近代システムは二〇二五年まで続いてきたのである。 しかし、私たちは、トランプ大統領自身が、自由民主主義は民主党の欺瞞にすぎないこと、自由放任主義よりも関税による保護貿易主義を主張していることを知っている。また、ヴァンス副大統領が「保守革命」をかかげて、個人主義よりは古き良きアメリカの家族主義と信仰の重要性を訴えていることも知っている。そして現在、日本をふくめた国々が、経済安全保障の名の下に、一民族一国家よりも、広域経済圏構想に興味をもっていることも知っているのだ。 かくして、百年前の戦間期に、きわめて近いことを、私たちがおしゃべりしていることが分かるだろう。戦前、日本はこの世界的危機に対して、「大東亜新秩序」という、カーの思想のアジア版を掲げて世界秩序に挑戦した。現在、近い構想は、むしろロシアや中国が目指しているといってよいだろう。 では、いったい日本はどういう自画像をもつべきなのか。Gゼロという混沌に、どういう物語を世界に提供できるのか―これが今、私たちが取り組むべき課題なのである。
【速報版】 令和7年8月4日 週刊「世界と日本」NO.2298号より
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