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《みまき せいこ》
2003年東京大学教養学部卒、同大大学院総合文化研究科で博士号取得(学術)。早稲田大学助手、米ハーバード大学、ジョンズホプキンズ大学研究員、高崎経済大学准教授などを経て2025年より現職。著書に『戦争違法化運動の時代』(名古屋大学出版会)、『Z世代のアメリカ』(NHK出版)、共著に『自壊する欧米―ガザ危機が問うダブルスタンダード』(集英社)、『アメリカの未解決問題』(集英社)等。

 2期目のドナルド・トランプ政権が発足して8カ月となる。大統領に就任してからトランプは中小国の主権を軽視したり、領土併合を示唆するような発言を繰り返してきた。太平洋と大西洋を直接結ぶ海上交通の要路で、1999年にアメリカからパナマへと管理権が移譲されたパナマ運河について、トランプは「通行料が高すぎる」等と不満を表明し、管理権の返還を求めてきた。デンマーク自治領のグリーンランドについても、その所有は「国家安全保障にとって絶対に必要」と断言し、購入に意欲を見せている。この他にも、「カナダはアメリカの51番目の州になるべきだ」と発言したり、「メキシコ湾」の呼称を「アメリカ湾」に改める大統領令に署名するなど、枚挙にいとまがない。

 こうした発言から見えてくるトランプの世界観は、侵略や領土併合が国際法で禁じられていなかった19世紀のそれだ。トランプの就任演説には「明白なる運命(Manifest Destiny)」という概念が盛り込まれ、「領土の拡大」もうたわれた。「明白なる運命」とは、1845年にジャーナリストのジョン・オサリヴァンが提唱した「領土拡張は神の意志」という考えで、19世紀から20世紀転換期にアメリカの領土拡大や帝国主義的な進出を支えた考えだ。
 こうしたトランプ政権を前に、世界では今後起こりうる最悪のシナリオの1つとして、「ヤルタ2・0」への懸念がささやかれている。第2次大戦中の1945年、米英ソ3首脳はクリミア半島のヤルタで会談し、米英仏ソによるドイツ分割占領や、ソ連の対日参戦の見返りとして南樺太や千島列島をソ連に割譲することなどに合意した。同様に2025年の世界には、アメリカ、ロシア、中国といった現代の大国が世界を勢力圏に分割し、互いの勢力圏を認め合い、大国中心の「平和」を維持する「ヤルタ2・0」が誕生しつつあるとの見立てだ。

 そうした懸念は、8月15日に米アラスカ州アンカレジで開催されたトランプとロシアのプーチン大統領の米露首脳会談後、いよいよ強まっている。トランプとプーチンが会うのは2019年以来で、2022年にウクライナ侵略が始まって以降、初の米ロ首脳会談で停戦や和平の可能性が話し合われた意義は小さくない。問題はそこで話し合われた「平和」の内実だ。両首脳は会談後に共同記者会見に臨み、「生産的な会議だった」などと自画自賛したが、プーチンは、停戦のためには「危機の根本原因を取り除く必要がある」と従来の主張を繰り返し、占領しているウクライナの領土について一切譲歩する姿勢を見せなかった。
 会談の具体的な内容は共同記者会見の場では語られなかったが、その後トランプがヨーロッパの首脳らに語ったところによると、プーチンは、ウクライナが東部ドンバス地方(ドネツク、ルハンスク両州)から自国軍を撤退させロシア側に明け渡すことを引き換えに、ウクライナの残り地域での現在の戦線での停戦と、ウクライナやヨーロッパ諸国を再び攻撃しないという書面の約束をすると提案したという。現状ロシアは、ルハンスク州の全域を掌握しているが、ドネツク州の25%程度は制圧に至っていない。ウクライナにはロシアに書面上の約束を何度も裏切られてきた歴史もある。1994年の「ブダペスト覚書」では、ウクライナが旧ソ連の核兵器を放棄することの見返りに、ロシアはウクライナの「独立、主権、既存の国境線」を尊重すると約束したが、ロシアは2014年にクリミア半島併合を強行し、ドンバス地方で親ロシア派武装勢力への支援を通じ、戦闘を開始した。2014年9月には「ミンスク1」と呼ばれる停戦合意が成立したが、親露派は全欧安保協力機構(OSCE)による停戦監視を無視して違反を繰り返した。ドイツとフランスが調停役を担った2015年2月の停戦合意「ミンスク2」も同様の結果に終わった。

 アラスカ会談では停戦に向けた具体的な道筋はつけられなかったにもかかわらず、会談後トランプは「当面は新たな対露制裁については考えない」という態度に転じた。そもそも、トランプが米露首脳会談の開催を発表した8月8日は、「ロシアが停戦への努力を見せなければより厳しい制裁措置をとる」と、トランプ自身が設定していた制裁強化の検討の期限だった。しかし結局、対露制裁の強化は、米露首脳会談の開催決定を受けて延期され、さらに会談を経て、その可能性自体が放棄されつつある。プーチンは、ウクライナの戦争から得たいものはすべて得た上で、ウクライナの頭越しに米露関係を正常化させ、国際社会へと復帰していくつもりだろう。プーチンに対しては、ウクライナの占領地域から子供たちをロシア側に移送したことに関し、戦争犯罪の疑いで国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状も出されている。アメリカはICCに加盟はしていないものの、こうした人物と、トランプはレッドカーペットの上を並んで歩き、大統領専用車「ビースト」に同乗したのだ。ここまで厚遇する必要はあったのだろうか。プーチンからみれば、アラスカ会談は、何も失うことなく、将来の制裁強化の可能性を回避し、「自分はアメリカに堂々と訪問でき、大統領に厚遇される存在だ」と国際社会にアピールできた、極めて有益な機会であったが、ここから一体アメリカは何を得たのか。むしろ国際的な信頼など、失ったものの方が巨大ではないか。

 トランプは貿易政策については中国を敵視しているが、大国として対等な交渉相手ともみなし、中国の習近平国家主席との早期会談に意欲を示している。日本はアメリカとの「価値の共有」をうたってきたが、日米の価値観の共有を大前提に、アメリカと歩調をあわせていればよかった時代は過ぎ去りつつある。日本もまた、こうした大国中心の平和に呑まれていくのか、それともこうした平和に異議を唱える国々とともに国際法に則った平和を諦めずに追求していくのか。私たちの主体的な選択が求められる局面だ。

【速報版】 令和7年9月1・15日 週刊「世界と日本」NO.2300・2301号より